第54話 初レッスン
2012.02.21.Tue 07:00
平常心を取り戻した佐倉は黙々と自分の練習をこなしていた。大家に教わった練習方法、15個の的玉と手玉を含む16個を一列に並べ、反対側の短クッションにちょうどぶつかる強さ、往復する強さ、1往復半・・・これが真っ直ぐ思ったところに行くように、真っ直ぐのストロークを目指す。
同じ強さで撞いているつもりでもそうならないことがある。
「ひょっとして場所によってクセがある!?」彼女はそう疑いだした。それに大家の練習台と店のテーブルでも違いがあるようだ。天候や時間帯によってもボールの戻り方に違いがあるようにも感じる。そのリクツはわからなかったが、体はその差をショットの強さで補おうとしていた。
ゴトン!と大きな音がすると、立て続けに大きな音が連続した。まるでトタン屋根に大粒の雨が降ってきたかのような騒ぎだ。振り向くと少年たちがボールを手に持ってテーブルに投げつけていた。投げつけられたボールはテーブルの石版の上を跳ね回っていた。聞こえたのはその音だったのだ。
「ちょっと!」佐倉は耐えかねて少年たちに向かっていった。もちろんマスターも気づいていたが、佐倉が行動したのを受けて見守ることにした。もし何か大事にでもなったら自分が出て行こうと思い、とにかく彼女に判断を委ねてみた。
悪びれず、近づいてきた佐倉の方を振り返った少年たちは、「何が悪いんだよ、何か文句でもあんのかよ?」とでも言いたげな目で彼女の目を睨み付けた。
「ボールはそうやって扱うものじゃありません」片手にキューを持ち、仁王立ちした彼女はきっぱりと言い放った。
「だってさ、つまんないじゃん、ビビリヤード!」少年たちは空を見上げてそう言った。
「えっ?どうして?」佐倉は尋ねた。
「ボールは散らないし、思ったところに行かないしよォ。手で投げるんだったらオレっちも自信あるけどよ」そう言うとリーダー格の少年はまたボールを投げようとする。
「ちょっと待って!」佐倉がその手を制止した。リーダー格の少年も引き留めてもらうつもりでアクションをしただけなのかも知れない。
何かのゲームをするにしても、的玉がある程度の方向に向かわないと楽しくないだろう。彼女はそう思うと、簡単な球でも入れられるようになるように、フォームの手ほどきをしようと考えたのである。まだ他人に教えるほどの腕前とは思えないが、自分が教わったことをそのまま伝えるぐらいならできそうだ。
「じゃあちょっとやってみて」彼女は優しく話しかけた。
テーブルの周りに少年たちが集まり、一列に並んだ。
「本当はカラーボールを直接撞くのはよくないんだけど・・・」そう彼女が言うと、少年たちはちょっとだけルールを踏み出すことに少しだけ快感を覚えた。
一人を除いて全員がキューを持ってカラーボールに向かって構えている。佐倉は自分が教わったフォームの作り方を思い出しながら彼らのフォームがより格好良くなるように、うまく見えるように少しずつ修正を加えていった。
「見てみて!どう?格好良くない!?」彼女がそう言うと、言われた少年は得意げに「元がカッコエエからな!」と言った。リーダー格の少年が、「ねーちゃん、オレは?オレは?」と自分のフォームを披露する。
ウケ狙いで構えたフォームはお世辞にもカッコイイとは思えなかったが、佐倉は「惜しいんだけど、それだとボールが入らないような気がする・・・」と言ってフォームの矯正をする。すると仲間が「お?カッコイイんでね?ハスラーっぽくてさ」
すっかり気をよくした彼らはもう佐倉のペースにはまり込んでいると言っていい。彼女にそんな才能があったとはマスターも驚きだが、彼女が助けを求めずに自分で解決しようとしていることを、できるだけ尊重したいと、出しゃばりたい気持ちをグッと我慢したのであった。
もちろん佐倉が最初からそんなにうまく指導できる訳もなく、フォームを構えても思ったように的玉が入らなかったりしたが、自分の感覚や経験を総動員して真剣に考えたりしているうちに、スパーン!という快音を立てて的玉がポケットしたとき、少年たちの間に素直な喜びの声がわき起こった。
「もう、オレ、なんか掴んだ気がする」短い距離のショットでも、ブーツゴムを響かせる快音は彼らの脳に響き、快感を増幅させる。その点において、佐倉と少年たちは同じ快感を共有できた仲間と言っていいだろう。
一人だけ座っていた少年がいた。エイトボールのラックを教えた少年だ。
「あなたはいいの?」佐倉がそう尋ねると、彼は椅子にずっと腰掛けたままで少年たちのレッスンをちらちらと見ていたはずなのに、そっぽを向いて無関心を装っていた。
そんなレッスンだけではおもしろくないだろうということで、彼女は少年たちにゲームを持ちかけた。別に誰が勝ちということではなく、15個の球をラックして、順番関係なしに一番たくさん入れたものの勝ちとした。
「おねえさん、ハンデは?ねえ、ハンデ!」少年たちは佐倉にハンディキャップを要求した。そういう知識だけは長けているようである。
佐倉自身もハンデを振られることはあっても振ることはなかったし、どうしていいのかわからなかったが、少年たちの求めに応じて少年たちは5球、彼女は10球入れたら勝ちということになった。
リーダー格の少年がブレイクをしたがり、それでいいことになったが、力みすぎてうまく当たらなかったので、組み直してからもっと距離を近づけてブレイクしていいことにした。正式なルールとしてはNGだろうが、遊びとしては何でもいいだろう。
今度はうまく当たり、リーダー格は首をかしげてはいたが、佐倉が拍手したため、それでいいことにした。
ゲームが始まってくると座っていた少年が立ち上がってゲームをのぞき込んでいた。そして仲間たちがショットする番になると、「緑を狙ったらええねん」とか、度々口を挟んでくる。
しばらくして佐倉の番になったとき、楽に狙える球がなくて悩んでいた。すごく薄いカット球ならあるが、そんなに自信はない。
「うーん」と彼女が悩んでいると、座っていた少年が口を開いた。
「バンクで狙ったらええやん」
「えっ?バンクって知ってるの?」佐倉がきょとんとしていると
「当たり前やん、そんなん誰でも知ってるわ。入射角イコール反射角やろ?」と少年は得意げに言う。
「じゃ、ちょっとやって見せて!」彼女は満面の笑みを見せて少年に自分のキューを手渡した。
驚いたのは少年の方だった。最初は嫌がっていたが、仕方なく差し出されたキューを受け取った。
「オ、オレはちょっと・・・」少年はちょっとたじろいだが仲間の少年たちの目もあり受けざるを得なかった。
少年はキューを持ち、構えようとするが、構え方がわからなかった。ネットゲームなどではビリヤードのことをよく知っていたが、実際に撞いたことは数回しかない。その上、佐倉のレッスンも受けたかったのにプライドが邪魔してキッカケを失っていた。
「ご、ごめん。オレ、やっぱりできひん」彼がキューを返そうとすると、佐倉は「ううん、できるわよ!」と笑みを浮かべて突き返した。額から汗が噴き出すように流れてきた。
少年は腹をくくり撞いてみることにした。レッスンを受けた少年たちに比べると見劣りのする、たどたどしいフォームだったが、誰も彼のことを笑ったりなどせずに見守っていた。
佐倉は彼のフォームを真剣に観察していたが、キューの方向が少しずれている気がしたので、右手の持つ位置を少しだけアドバイスした。すると彼の放ったショットは的玉をクッションに押し当て、反対側のポケットに快音を響かせた。
少年は少しの間じっとして動かなかった。佐倉も他の少年たちも「おお」と叫んで拍手した。
少年は体を起こすと、「マグレ、マグレ」と照れくさそうに後ろ髪を掻きながら言ったのだ。さっきまでの少年の態度とはまるで違っていた。
「キューは返すわ。オレも混ざりたいんやけど、ええかな?」少年はもっと球を撞いてみたい気持ちになった。リクツでは理解していた少年も、ビリヤードの快感を共有できる一員になった瞬間だった。
「もちろん、喜んで!一緒に遊びましょう」佐倉は自分の練習はそっちのけで彼らとゲームの時間を共有するのだった。
「若い奴らはええなあ」マスターが奥さんにそう言うと、
「あなたにもそういう時があったじゃない」と返され、すっかり忘れ去った過去の思い出を少しだけ呼び覚ましてくれた。