第52話 往復ショットとカウントダウン
2012.01.03.Tue 07:00
「佐倉さん?」
「えっ!?」
「最近、忙しそうやね」
「ええ、まあ、忙しいかも・・・」
世話焼きの石黒が笑顔で問いかけると、佐倉も笑顔で答えた。忙しいというのは、この場合は充実しているということだろうか。そうであれば、最近の佐倉の生活は充実していると言えた。学校が冬休みに入り、年明けの秋期試験を終えれば後は長い春休みの到来である。できればその間にビリヤードの腕前の方もこっそりと上達しておきたいと企んでいた。
堀川の奥さんは昼前から夕方までを主に担当して、佐倉は夕方から夜までの時間帯で仕事をしていた。朝から夕方までの空き時間を利用して、試験の勉強を少ししたり、大家の離れでコーチを受けていた。最初はキューを分割してケースに入れて運ぶのも面倒だったが、そうしたことも次第に慣れるものである。
離れのビリヤード台に着くと、明かりを点けたりストーブに火をともしたりして準備をする。そして部屋が暖まるまでもなく、柔軟体操をして体をほぐし、15個の色玉と手球を短い方のクッションに一列に並べ始める。
教わった通りに毎回チョークを丁寧にタップに塗りつけ、それらを一球一球真っ直ぐに狙って反対側のクッションに向かって丁寧に撞いていく。反対側に移動してまた一列に揃え直すと、今度は一往復させる。それが終わると一往復半、二往復と順番にやっていく。的球を狙わない単純な反復練習だ。誰でも長時間続けるのは嫌になりそうだが、彼女は不平を言うことなく、やめろと言うまではずっと続けている。
大家は外の用事がないときはその部屋のロッキングチェアに腰掛けて一緒に時間を過ごしてくれる。そしてごく希に、今のショットは良かったとか、今のはダメだとか、新聞を読みながらでも編み物をしながらでも、まるでずっと見続けているかのような指摘をするのである。
そしてダメだしをされるのは、佐倉自身が苦手に感じていた1往復半以上の強めのショット、そして一番弱い片道のショットと決まっていた。強いショットは2往復できなかったり、クッションに当たってから方向が逸れてしまったりする。弱いショットは大家によると「死んでいる」ショットらしい。
佐倉がどうしていいかわからなくなっていると、決まって大家が見本を見せてくれる。手取り足取りは教えてくれないが、これを見て真似しろということらしい。
佐倉は目を皿のようにして大家のショットの一部始終を目に焼き付けようとする。そして自分で同じように真似しながら工夫していく。
最初の頃は少し続けただけで腰の辺りが痛くなってきて、拳でコンコンと自分でマッサージをしたりしていたが、やっていくうちに筋肉も整ってきたのか、だんだんと苦痛を感じなくなってきたのだ。そうして何日も練習を繰り返していくうち、楽な構え方、腕の振り方が身についてきて、撞いたボールの跳ね返り方もだんだんと真っ直ぐ返ってくるように進化していった。
小雪の舞う寒い日も暖かく感じる日も、時間さえあれば毎日通うようにしていた。同じように撞いているつもりなのに、ボールが転がりにくいと感じたり、クッションの返り方が違うように感じたりするのだが、いつも目標は大家の見本ショットで、どんな強さでも真っ直ぐ跳ね返って、思ったところにピタリと止めたい、ただその一心だったようだ。
本音を言えば、もっと手球のポジションを極めて、シュートを連続させたいし、上級者のようにマスワリを出してみたいという気持ちはあったはずである。大家の手ほどきを受け始めてからまだ一球たりとも的球を狙ってのショットを教わっていない。そういうもどかしさがあるものの、半ば「弟子入り」のようなものだから・・・と、彼女は強い意志でいつもの練習を続けるのである。
さらに数日が過ぎ、今年もいよいよ大晦日を残すのみとなった。
「あんたは実家に帰ったりしないのかい?」
「ええ、帰る予定はないですけど・・・」
「ふーん」と大家が言うと、「じゃあ、大掃除でも手伝ってもらおうか」とにんまり笑う。
こんな大きいお屋敷の大掃除なんて・・・と佐倉は内心恐れていたが、普段掃除していない場所はそんなに多くはなく、それほど大変ではなかった。
掃除が終わると大家は「ちょっと付き合っておくれ」と笑顔で佐倉を連れ出した。
佐倉はジャージの上にダウンを羽織り、自転車を押しながら大家についていった。周りはすっかり冬で冷え込んでいたのに、大勢の人が外を歩いていた。たどり着いたのは近くの商店街だった。
「あたしゃあんまり料理が得意じゃなくてね、買ってきて切って並べるだけだけどね・・・」
そう言いながら二人で商店街を練り歩き、おせち料理に欠かせないかまぼこやお餅、そしてお総菜屋から酒屋、菓子店にいたるまで自転車の前かごと荷台にたっぷりと商品を詰めながら買い物を進めて行く。
大家の分厚い財布からは何度も一万円札が出て行くのを目の当たりにして、佐倉は目をまん丸にして驚いたが、どれも美味しそうでいい匂いがそこら中から溢れていて、至福のひとときを味わったような気がしていた。
「あー、よく買った!」と二人が声をそろえるぐらいたくさんの買い物をして、二人は玄関先で座り込んだ。
「ありがとうね、助かったよ」
「いえ、今日はよく働いた気がします」
「でもまだ働かなくちゃ。これぐらいで根を上げてちゃいけないよ」大家のその言葉で思い出した。
「あ、そっか、これから堀川行かなくちゃ」
「元旦にはうちにおいで」
「はい、そうします」
佐倉はにっこりと笑みを浮かべて相田邸を後にした。
堀川につくと、大掃除はすでに終わっていて、お客もまばらだった。
「佐倉ちゃんが来る前に掃除は済ませておいたよ」マスターがそう言うと、
「ありがとうございます」と佐倉は本心から深々と頭を下げた。
それよりもカウンターの方から何とも言えないいい香りが漂ってくる。
「お汁粉ですか?」
「ええ、ぜんざいよ」マスターの奥さんが大鍋に作っていたのだ。
そんなにたくさん作っても・・・と佐倉は思っていた。
ところが夜の9時を回るぐらいから、いつもの常連が一人、また一人と集まってきて、適当に転がし始めるのである。
「ハァ、やっと仕事が終わった−!」と安堵のため息をこぼしながら牛島が現れ、ドルンドルルンというバイクの爆音が轟き、お嬢がドアを開ける。
「ああー、寒い寒い。早く暖まりたーい!!」
ひっきりなしに客がやってきては、ビリヤードをするとも限らず、今年一年を振り返ってみたり、勝手にテレビを点けて紅白歌合戦を見たり・・・。中には所帯持ちで途中退席するものもいたが、大方はその場に残って一年の最後を特別な日として過ごそうとしているようだった。
「ああ、ここや、この店や」そう言いながら入ってきたのは、大阪のペアマッチで最後に対戦した織田という選手だった。
「うち、実家はこの近くですネン」と言うと、堀川ローカルのネタに華が咲き、あっという間にこの店の常連に馴染んでしまった。
思い思いに酒やビールを酌み交わしたり、焼き餅の入ったぜんざいを食べたりしながら時間を過ごす。佐倉はいつもの勤務時間が過ぎると、あとはその場の流れに身を任せて、皆と過ごすことにした。
近くのお寺の除夜の鐘が辺りに鳴り響き始める中、「もうそろそろかな・・・」と球を撞いているものも手を休め、テレビの方に集中し始めた。
牛島が「そろそろ行きますよ−!」と声をかけると、皆が「おお!!」と応える。
「10、9、8、・・・」カウントダウンの声が次第に大きくなり、佐倉も気付けば一緒になって叫んでいた。
「ゼロ〜〜〜!!」と同時に誰かが用意したクラッカーが鳴り響き、「あけましておめでとうございます!」と一斉に新年のあいさつを交わし始めた。
一日たっぷり働いた佐倉は早めにアパートに引き上げたが、堀川ビリヤードの灯りは朝まで消えることがなかったという。