第50話 再始動!
2011.12.20.Tue 07:00
ハウストーナメントの日は、普段よりも忙しかった。佐倉も掃除を念入りにしたし、ボールもピカピカに磨いていた。
椅子の配置も試合待ちの人がくつろげるように配置換えをしたり、パイプ椅子を用意したり、普段より重労働である。
マスターの奥さんはいつもより大きい鍋いっぱいにカレーを仕込んでいた。
日が暮れ出すと、キューケースを担いで普段見慣れないお客が何人もやってきて、早速練習を開始した。よくある光景だが、お店のテーブル・コンディションを掴むため、他店からの来店者はそうして先に慣れておくのだそうだ。
徐々に常連客も集まり、いつも広く感じていた店内はあっという間に人で埋まり、むしろ居場所に困るぐらいの狭さである。否応にも緊張感が高まってくる。あのペアマッチのときと同じような雰囲気だ。
テキサスエクスプレスというルールでのナインボール。クラスごとにハンデが振られており、Aクラスで4セット、Bクラスは3セットと1セットずつ下がり、Cクラスは2セットを先に取った方が勝ちになる。
エントリーフィが徴収され、順番にクジを引いてトーナメント表に参加者の名前が埋められていく。
「いつもの堀川じゃないみたい」言葉は違えど常連たちはお互いにそうささやきあった。
「あんたが緊張してどうすんのさ」マスターの奥さんは、試合に出ないのに妙に落ち着かない店主にそう言って、やや出っ張ったお腹を肘で小突いた。
「えー、お集まりの皆さん、ただいまから、第・・・何回だっけ」
マスターが奥さんに小声で尋ねると「何回でもいいのよ!」と叱られ、場内からはくすくすという笑い声がこぼれ出す。一通りのルール説明が終わって順に選手を呼び出し、用意ができた対戦からゲームがスタートしていく。
ドカン!というブレイクの音が不規則にあちらこちらから聞こえだし、熱心にプレイを観戦する者もいれば、試合待ち同士で世間話に花を咲かせる者もいた。
季節はもう冬。ジャンパーや上着がテーブルの後ろのハンガーにいっぱいに吊されて、黒っぽいものから華やかな赤まで、壁一面を着飾らせていた。試合前はストーブを点けていたが、試合が始まるとプレイしている選手は暑くなってくるので暖房はカウンター周りを残してすべて消されてしまった。
いつもの店と違い、熱気を帯びた場内ではそれぞれに熱戦が繰り広げられる。仕事帰りに立ち寄ったプレイヤーも、目の前のゲームに集中して一喜一憂している。世俗の垢をスポーツで発散して洗い流す、と言えば言い過ぎだろうか。しかしながら職場では見せないような笑顔をここでは見せている、そんなサラリーマンプレイヤーも実際に何人もいるのである。
佐倉にとって久々の試合、それも一人で考えて撞かなければならない初めての試合。それは彼女にとって忘れられないものとなった。普段のようにショットができない、どうしていいかわからない。自分でもビックリするほど緊張して、手先がプルプルと震え、正確な狙いを阻害する。ペアマッチのときはあんなに大勢の前でも平気だったし、このハウスではそんなに注目されていないはずなのに・・・。
初戦は1セットを取ることも出来ずに敗退し、ひどく落ち込んでしまった。ホームの常連たちは彼女を慰めた。
「最初はそんなものだって」
その言葉は残念ながら彼女の気持ちの奥までは届いていなかった。そんなに上手な訳じゃないが、ここまでひどいはずもないのに、そうした不安感が彼女を襲い続けた。
敗者2回戦に回り、もう一度対戦することができた。その場では少し緊張感が薄まってきていた。あるいは緊張から逃れることに成功したのかも知れない。試合の場というものには少し馴染んできたのだろう。
だが、相手が外した穴前の9番ボールを入れた以外、これと言っていい場面がなく敗退してしまう。
肩を落としている彼女に、常連たちが優しい言葉をかける。なんと言っていただろう。佐倉はあまり記憶に留めていなかった。
その後、運営を手伝ったり、お店の雑用や片付けをしていた記憶が彼女にはあった。他の参加者の試合を観ていたような気もする。暗い夜道を一人で帰り、アパートの前の薄暗く細い路地を抜けて自分の部屋に入り、電気ストーブを点けるのも忘れて布団の中でくるまっていた。
目の端々が痛い。鏡を見ると目の周りが少し赤っぽく腫れていた。泣いていたんだろうか?涙は流していないはずなのに。
その夜はうつ伏したり仰向けになったりしてもなかなか寝付けなかった佐倉だった。
「悔しい」
その言葉を口にしてはいけない気がしてぐっと唇を噛みしめた。でも内心では本当に悔しかった。ビリヤードを辞めてしまいたい気持ちと、今以上に練習して強くなりたい気持ちが激しく交錯した。目を瞑っていても瞼に鮮明に蘇ってくる場面、ミスショットした配置、そのときの情景、そのミスがなかったときの想像、他店から参加したプレイヤーが表彰されている場面、いろいろな情景が頭の中でぐるぐると回り、彼女を苦しめた。
そうして気持ちも考えも何もかもまとまらずに、苦しさに疲れてしまっていつの間にか眠りについてしまっていた。
次の日の朝、天気は快晴で、中庭の方から小鳥のさえずりが聞こえてきた。彼女は洗面台で歯を磨き、凍てつくような冷たい水で顔を洗った。昨日の敗戦は記憶にはしっかりと刻まれているのに、気持ちはなぜかすっきりとしていた。
手早く身支度をすると、彼女は大家の家の門の前に立っていた。古い呼び鈴を鳴らすと大家が出てきて中に招き入れてくれた。相変わらず大きなお屋敷だった。