第49話 ポジションを、一から学ぶ
2011.11.25.Fri 04:08
翌日、ランチのために学食に行った佐倉は、遠目に可南子とそのカレシを発見した。軽めのメニューを選んでトレーに載せると、ゆっくりと彼女たちの方に近づいていって、可南子の隣の空いている席に腰を下ろした。
どう切り出したらいいのだろう、という迷いよりも先に「昨日はゴメンね」という言葉がしごく自然に出てきたのだった。ふたりは一瞬キョトンとした表情で顔を見合わせたが
「ううん、気にしないで。こちらこそ先に帰っちゃってゴメンね」
「そう言えば、『何も真剣にやってない人に・・・』なんて、つい言っちゃって。ダーツを一所懸命やってる人に・・・。ごめんなさい!!」
勢いよく頭を下げた佐倉の真摯さに、カレシの方も恐縮したのか
「ちょっとだけカチンと来たけどさ、でもキミの真剣さがビンビン伝わったから、ホント、気にしてないよ」と笑顔で応えた。
3人は和やかに食事を終えると、また一緒にビリヤードやダーツをすることを約束して、それぞれの授業のある教室へと散っていったのである。
授業が終わっていつものように堀川ビリヤードに出勤すると、佐倉はいつものシュート練習を始める。佐倉は昨日の対戦を振り返って、あらためて自分に足りない部分を感じていた。ふと思い立って、書棚の中から一冊の本を取り出してページを繰る。「ビリヤード 一からはじめるポジショニング」。その本にはそう書かれていた。
彼女は最初の方のページの図解を見ながら、描かれているように的球と手球をセットし、それを実践して見せた。最初の方は難なく成功したが、ページを繰るに従って難易度が増し、どう頑張っても難しい場面が出てくる。
この様子を見ていた石黒が佐倉に近寄ってきて話しかけた。
「お、何か面白そうなことやってるね」
石黒はお客の動向を見るのが好きで、少しでも変わったことをやっているのを目にすると、話しかけられずにはいれない性格だ。
「はい、配置とポジションの練習です」佐倉がそう応えると
「そうやね、これは上手くなるには必要不可欠やし、やっといた方があとあと自分のためになると思うよ。ただ・・・」
「ただ?」佐倉は不安そうな顔を見せる。
「そう、ただ、この本の1ページはホントに重い。だから10球連続するまで続けて、それができれば次のページに進むようにすりゃいいと思うよ」
「はあ・・・。でも、やってみます!」
最初不安がった佐倉だったが、石黒のお墨付きを得られて少しやる気が出てきたようだ。
佐倉は今のところ、ビギナーにちょっと毛が生えた程度のレベルである。ビリヤードの習得には長い時間がかかるものだ。しかし彼女の持ち味は、なんと言っても根気強く一つのことに打ち込めることだろう。練習を退屈と思ってそこで諦めてしまう人も大勢いる中で、上手くなるための一つの条件をクリアしていることになる。
石黒は自分の経験から何か一つぐらいアドバイスできただろう。そうしなかったのは、彼女のチョイスを最大限に尊重してあげて、もしそれで躓いたときにあらためて他の道しるべを示してやるつもりだったのだ。かといって、石黒自身はあまり教え上手ではなく、単に他の常連を紹介するにとどまるであろうが・・・。
物静かなマスターと比べて、この店を取り仕切っているのは石黒たちだったりする。常連の中には「教え魔」もいるだろうが、彼が方針を決めれば、およそそれに逆らうような人はおらず、店内のバランスをうまく調整していたのである。
彼女が自分で手にした本は、意外にも良書だった。ポジションの基本的な考え方からたくさんの基本練習がドリルのように載っていて、最初は誰でもできそうなことから徐々に難易度を上げていく。積み上げられた基礎力はいつでも役立つだろう。
考えてみれば、やっとキューを握れるようになったビギナーはすぐに何らかのゲームをプレイすることになる。基本中の基本がまだまだ出来ていない状況でいきなり応用編をやることになり、その後から必要に迫られて再度習熟しようとするか、そこで飽きてしまうか、だ。
かといって基礎練習というものは決して楽しくはないのも事実である。
そこで石黒やお嬢たちが提案したのはミシシッピ式と言われる方法だ。佐倉以外がシュートミスをしたときは、佐倉は常にフリーボールからスタートするというやり方である。これなら好きな位置から最初のショットをすることが出来て、ポジション練習の中でも活かせるショットが増えてくる。その代わり、佐倉以外に回って来たときはファウル以外はそのままの配置で続けるのである。
常連たちの間でも、「みんなで佐倉さんが上手くなるように育てる」という雰囲気が蔓延し、彼女のやる気も十分に高かったので、みるみるうちにいろんなショットを身につけていったのである。
それから数週間が経ち、佐倉を見ていたマスターがこう呟いた。
「そろそろウチの店でもハウスをやろうかいのォ」
その言葉を「待ってました」とばかりに反応したのはウッシーこと牛島、そしてお嬢だった。他の常連客はあまり他の店には行きたがらない人が多かったので、この提案に賛成した。
佐倉を包むような熱気は周囲にも広がり、何年も休止していたハウストーナメントを開催するにまで過熱していった。
「ま、佐倉さんが参加する気があれば・・・やけどね」
そうマスターが言うと、一部の常連客の口からは「ああー」というため息が漏れ、視線は佐倉の方に集中した。
「いいですよ」なんともあっさりと答えたのは佐倉だった。
「おおー」野太い低い声が彼女のやる気に関心を示した。
「じゃ、アタシが運営するね!」「オレも手伝うよ」お嬢と牛島が次々に呼応すると、彼女らを中心に輪が広がって、試合フォーマットやらエントリーフィ、募集人数に至るまでがとんとん拍子で決まっていく。
常連たちは口には出さないものの「堀川ってとこはこうじゃなくっちゃね」と、皆思っていただろう。家族のような、兄弟のような一体感を心地よく思っているお客がこの店を作っているようなものである。
要項書が仕上がった頃には、同時にエントリーも10名以上が決まっていた。店内のコルクボードに貼られたエントリーリストは日に日に埋まっていき、募集人数の32名はたったの一週間で集まり、締め切られた。