第48話 悔し涙
2011.11.15.Tue 07:00
バンキングに負けた佐倉は9ボールのラックを組みながら、そのカレシに話しかけた。
「ダーツが上手なんですって? カナちゃんから聞いたんだけど」
そう尋ねられて、カレシの方は照れくさそうに
「ああ、ビリヤードは遊びでやるぐらいだけど、ダーツの方はぶっちゃけプロを目指してるぐらいなんだ」と打ち明けた。
そう答えている彼の目元口元がきりっと引き締まっているのを見て、佐倉は可南子のことを少しうらやんだ。
ゲームが始まると、どちらもビリヤードの腕前がたいしたことはないからか、それほど圧倒的な差が出るほどではなかった。しかし、カレシの方が2球、3球と入れ続けることもあるのに対して、佐倉の方はまだうまくポジションをする術を知らなかった。
どうしてもターンが途切れ途切れになり、相手に順番を回してしまうと座っている時間が長く感じられた。
コンビネーション、バンクショット、そうした多彩なビリヤードの基本テクニックを彼は身につけていた。そして佐倉よりも数段強いブレイク。プロには劣るものの、手球にバックスピンをかけてコントロールするぐらいはお手の物といったところだ。
それに比べて佐倉はというと、一球一球の厚みに構えて、せいぜいスクラッチをしないようにと撞点を下に下げたり、緩やかなフォローショットで手球のコースを変えるのが精一杯。「優勝」なんていう華やかな響きとは裏腹に、あまりの実力差に次第に肩を落としていくのだった。
5セット先取りマッチは入れたり入れられたりの展開ながら、スコアとしては4対0という圧倒的な状態でカレシのリーチとなってしまった。
そうして迎えた第5ラック。カレシのブレイクは強いものだったが、手球がサイドポケットに吸い込まれるように入っていき、スクラッチをしてしまう。
ルール上、ファールを受けた手球はどこに置いてプレイを続行してもいいという、佐倉にとっては有利な状況だった。にも関わらず、彼女はそのボールをテーブル上のどこに置けばいいのか、手球を右手に持ったまま立ち尽くしてしまう。
1番ボールは直接狙えるポケットが限られていて、しかも難しい球になってしまう。9番ボールはポケットから離れているが、1と9のコンビネーションが狙えなくもない。
早く1セットでも返したい、そういう彼女の気持ちが、難しいながらもコンビネーションショットにチャレンジするという気持ちに傾かせてしまった。
「早く逃げたい」そんな弱い気持ちがあったかも知れない。
慎重に狙ったはずのショットは弱々しく、彼女の自信のなさがショットにも現れていた。自信を持って撞いたショットとは違い、腕が萎縮してキューがうまく振れない。そうして放たれたショットは彼女の意志とは違う方向に手球を走らせた。
弾き出された1番ボールは9番にかすりもせずにあさっての方向に転がっていった。イチかバチかのショットは的を外してしまった。
可南子がカレシの勇姿を暖かく見守っている中で、カレシの方はキューを伸び伸びと出していた。決して上手ではないが、男子らしい思い切りの良さが結果を幸運に導いていた。
ショットのチョイスも冒険的だ。なんと1番ボールをバンクショットで、さらに9番に絡めてコンビネーションを狙っている。無謀とも言える選択だが、彼の迷いのなさがこのアクロバティックなショットを惜しいところまで引き上げてくれた。
「おしい!」思わず可南子は叫んで手を叩いた。
それに引き替え、佐倉の方は目を伏せがちで、重々しく椅子から立ち上がるとボールの配置を見て、また一段と暗い表情に陥る。
偶然のことだが、1番と9番は接近しており、そして手球の位置からは直接1番に当てることが不可能な配置。
「せめてジャンプショットでもできれば・・・」と佐倉は一瞬考えた。
何とか1番に当てたい。しかし彼女にはジャンプショットをしたこともなければ、クッションからの狙い方も全くわからない。全くの手詰まりでどうしたらいいかわからず、ビリヤードテーブルの上に左手を預けたままうつむいて、どうにもできない自分の無力さを痛いほど感じていた。
カレシはその状況を察してか、何か言葉をかけようとしたがかけづらく、可南子と顔を見合わせて少し様子を見ることにした。
「遊びでビリヤードやってる人に、何も真剣にやってない人に、あたしのこの気持ちなんてわかるわけないよ」
佐倉の声は小さく震えていた。
もし1番に当てることができずにファールとなると、フリーボールを手にしたカレシはいとも簡単にコンビネーションを決めてくるだろう。優勝したということで期待されているのに、「遊びで」ビリヤードをやっている人から1セットも取れずに負けてしまうことに、自分でも腹立たしいほどの悔しさを感じていた。
「ダーツの方はすごく真剣なんだけどな・・・」佐倉に聞こえないほどの小声で彼は可南子にささやいた。そしてどうにも気まずい雰囲気に居心地が悪くなり、可南子と静かに合図をして会計を済ませて、お店を後にすることにした。
「また、ゆっくり遊んでね」可南子は気の毒そうに、佐倉に言葉を残して店を去った。
張り詰めたように静かになった店内を打ち破るかのように玄関のドアがカランと鳴った。入ってきたのは大家である。何かの用事で店に来たのだろうが、瞬時に状況を悟って佐倉の方に近づいていった。
スコアを記した黒板は、これまでの経緯を静かに語ってた。
目元を赤くはらした佐倉をよそに、大家はそのテーブルの周りをぐるりと一周すると、佐倉とは反対側の方に立ち、クッションを指さして声をかけた。
「ここだよ、佐倉さん」
「え?」と顔を上げた佐倉の目からは涙の粒がするっと頬を伝って流れ落ちた。
「ここに向かって、ちょっと強めに撞いてごらん。ちょっとだけ左を撞いとくといいかもね」
彼女の直感が、これは言うとおりに撞くしかない、そうささやいていた。
やるべきことが残っていた、そんな気がしながら、気力を振り絞って要求されたショットをする佐倉。コン!という澄んだ音色を発して手球が撞き放たれ、トンという優しい音でクッションに次々に当たってコースを変えていくと、手球は1番ボールがある方向へ向かって一直線に進んでいった。
彼女の経験からくる直感は、その後に何が起きるかを正確に予測していた。そしてその予測通り、手球から弾かれた1番ボールは方向を変えて9番ボールにヒットし、コーナーポケットに押し込んだのである。
さっきまでのどんよりとした気持ちは、このたった1回のショットによって拭い去られた。悔しさよりも嬉しさの方が勝り、驚きと喜びが彼女の気持ちを支配して、気がついたら飛び上がって喜んでいた。
「残念だったね」と大家は言った。
「はい、もっと頑張って練習します」
「いいや、これで4対1、勝負はこれからなのに相手が帰っちゃってさ」
茶目っ気たっぷりにウィンクして見せる初老の婦人の暖かさに、佐倉は「はい」という精一杯の元気で返すのだった。
「でも・・・、やっぱり今度、二人に会ってちゃんと謝っときます」佐倉がそう言うと大家は、
「ああ、それがいい。そうしなさい」とにっこりと微笑み、カウンターの方へ向かってマスターといつもの世間話を始めるのだった。