第32話 魅惑の変身
2011.07.12.Tue 07:00
佐倉の表情を見て、お嬢はとっさにその場を取り繕うとした。「ゴメン、そんなつもりじゃなかったの。」両手を合わせて本当に申し訳なさそうな顔で謝った。「でも・・・。やっぱり・・・、お店を出発する前に、2時間前でいいから、早くここに来て。」
懇願するように頼まれれば、どんな事情にせよ、佐倉も断りづらかっただろう。「ね、お願い。」と念を押されて、「うん。」と首を縦に頷いた佐倉だった。
そんなことがあって、帰り道の足取りも少し重い。佐倉はいつもの通りを歩いてアパートまでたどり着き、玄関の前の薄暗くてじめじめした路地を抜けようにも、なんだか気が重かった。
部屋に着いて、「どうしてこんな風になったんだろう?」と、何となく試合に出場することになった自分の「流されやすい」性格をもう少し何とかならないか・・・と思ったのである。昨日まではもっと楽しみにしていたのに。
翌朝、アパートの他の住人らはどこかに出かけていたのか、静かだった。大家は廊下ですれ違う佐倉に声をかけ、「後であたしも観に行ってあげるよ。ま、愉しんでくればいいよ。」と励ましてくれた。
「うん。」と答えた佐倉は玄関で靴を履き替えて表に出ると、壁に囲まれた狭い青空を見上げて、浮かんでいる白い雲にめがけて「ヨシ!」と気合いを込めた。右肩にはハンドバッグ、左手にはキューケース、という出で立ちで。
お嬢から手渡された地図を頼りにしばらく歩いていると、いかにもちょっと高級そうなワンルームマンションに行き当たった。エントランスで部屋番号を入力すると、インターフォンから「はい、今開けるね。」というお嬢の声が聞こえたかと思うと、目の前の自動ドアがウィーンと静かな音を立てて開く。
ベージュ色のタイルや明るい茶色の装飾、きれいなガラスや光り輝くクロムメッキの装飾など、明るく清潔なエントランスを抜け、エレベーター前のソファに腰掛けて待っていると、お嬢が降りてきた。
自分が住んでいる古いアパートとのギャップに新鮮な驚きを感じる佐倉は、珍しいものを見るようにキョロキョロしながらお嬢の部屋まで案内される。
部屋に通されると、クローゼットからはみ出したというか、部屋全体がクローゼットのような感じである。真っ白なふかふかのソファに腰掛けて待っていると、おもむろにメジャーで体のサイズを測り出す。
また「ちょっと待ってて。」と言われると。いくつかの衣装を衣装掛けの上に積み上げていった。
「ちょっと立ってみて。」と、お嬢の注文は多い。言われるがままに佐倉は立ったり座ったり、ハンガーに吊された衣装を体にあてがわれたりして、お嬢の納得したところで、「うん、これがいい!」と何やら決まったようである。
「時間がないから・・・」と、今度は美容院のようなエプロンを首に巻き付けられ、これまた白いスツールの上に腰掛けられる。目の前のドレッサーは佐倉の上半身を映し出していた。
されるがままで不安がっている佐倉に、お嬢ははさみを霧吹きを手にしながら静かに話し始めた。「昨日はごめんね。でも、いつもジャージしか着ていないから、せっかくの晴れ舞台なのに、もっとちゃんとキレイにして出て欲しかったの。」
櫛を巧みに使って器用に髪を解きながらはさみを入れていく。自分の髪が少しずつ切られていって床に敷いた新聞紙の上に落ちていく。「そう言えばあまり美容院にも行ったことがないです。」と告げると、お嬢はにっこりと笑みを浮かべながら黙々とヘアスタイルを整えていく。佐倉の黒い髪は染めずに、カットもやや控えめに整える感じで仕上がっていく。最後に細い三つ編みをアレンジしてまとめ上げると、今までの佐倉とは似てもにつかないぐらいに女の子らしく変身した。
「どう?」とお嬢が言うと、両手を頬に当てて「自分じゃないみたい。」と驚いた。
「じゃ、これに着替えてみて!」と衣装を渡す。普段のジャージから着替えてみると、それは白いブラウスにタータンチェックのパンツにサスペンダー。いかにもボーイッシュな雰囲気に一変した。確かにビリヤードをプレイするには、ヘアスタイルもパンツルックも理にかなってはいるようだが・・・。
佐倉はあまりの変身ぶりに自分で驚いた。80年代アイドルのような、現代ファッションのような、不思議な雰囲気である。ところが驚いている間もなく、彼女は鏡に背を向けさせられ、今度はメイクアップの時間である。
ドレッサーの上に置かれた大量の化粧品類、それらを駆使して彼女の顔を変身させていく。お嬢は化粧品関係の仕事をしているので、メイクアップはむしろお手の物である。
佐倉は自分の顔が今どんな状態なのかという不安を少し感じながらも、どう変わっていくのかすごく興味があった。お嬢は手にいくつもの化粧用具を同時に持ち、神業とも言えるような手さばきで彼女の顔にメイクを施していく。その眼差しは真剣そのものだった。
メイクが一通り終わったであろう瞬間から、お嬢は佐倉の顔の隅々まで念入りにチェックし、「これでいいわよ。見てみる?」というと、また背中側の鏡の方に振り返らせた。
佐倉の第一声は、声にならなかった。「うわあ。これあたし?」と驚嘆の声を上げると、また両手を頬にそっと当てて、自分の顔をまじまじとのぞき込んだ。すっかり気に入ったようだ。
「じゃ、そろそろ時間もないし、出発するわよ。」と言うと、二人で慌てて部屋を出て、ビリヤード店に向かい、「いってきまーす!」と元気な声で挨拶をしてから試合会場へ向かった。龍プロと牛島は先に向かったらしい。
佐倉の頭の中では、これまでのビリヤードの練習のことや試合のことよりも、自分の変身ぶりの方が大きな割合を占めていた。ともかく、気持ちは前向きで一切の不安を感じずに、楽しみたい気持ちで満たされていたのである。
そわそわ、わくわくする気持ちと共に、試合会場となるビリヤード場に到着すると、周りにはいかにも強そうな人、ベテランプレイヤーも含めてごった返していた。どこかの店を代表して出ているようなペアや、カップルで参加していると思われる人、気のあった友人同士や優勝しか眼中にない人までがひしめき合っている。
その中で龍プロと牛島を捜し出し、エントリーを無事に済ませると、しばらくの間、4人で歓談したり、他の知り合いプレイヤーと紹介し合ったり、和気藹々とした雰囲気の中にも、どこかピリッとした緊張感が張り詰めた異様な雰囲気を保っていた。
「それでは、これから試合のルールを説明します。プレイヤーの皆さんはこちらのテーブルに集まってください。」ハッキリとした聞き取りやすい男性の声がマイクから流れ出すと、一斉に場内は静まりかえり、その場にいるほぼ全員が運営テーブルの方に向かって集まっていく。プレイヤーズミーティングが始まると、場内の緊張感は一気に高まってきた。
いよいよ、試合の始まりである。